最近は遊びで那覇に行くことはまずありません。仕事の中継地点だったり、全国行脚の旅の中継地点だったり。
まだ沖縄らしさが残る那覇に魅力を感じていたのはもう40年前ぐらいでしょうか・・・。
那覇に行く楽しみは、沖縄国立博物館に行くことと、シネマQで映画を観ることです。
映画を観たいので「おもろまち」に宿を取ります。さて、何の仕事の次いでだったか、観たかった映画に行けました。
映画のタイトルは「ジョーカー」です。僕は特にバットマンのファンではありません。
マーベルの映画は嫌いではありませんが、観るのは殆どレンタルです。
でもこの映画には惹かれていました。惹かれた映画は出来るだけ鑑賞しに行きます。

ジョーカーと言えば僕の中では「ダークナイト」のヒースレジャーでした。
彼は呆気なく亡くなってしまったのが残念です。まだバットマンでは続編で活躍できたかも知れませんね。
でも「ジョーカー」をイメージづけたのはジャック・ニコルソンでしょうね。若い方は多分知らないでしょう。
ロードショーされてから大分時間が経っていたので、映画館はガラガラでした。10人ぐらいだったかな?。
でも僕は空いている施設が大好きなのですよ。人の少ないパブやバーが大好物です。
独り占めですからね。シアターの売店でコーラとホットドッグを買って、ど真ん中当たりの席に深く腰掛けます。
そして映画が始まり・・・そして上映は・・・終わりました。感情の起伏を殆ど持たないまま席を立ちました。
「つまらない・・・」などと批判的に感じたのではないのです。
共振性が深すぎたために一時のアパシー状態になっていたのです・・・。

ホアキン・フェニックス演じる「ジョーカー」は凄い映画でした。僕はこの役者を知らないと思っていたのです。
でも、履歴を調べたら、好きな映画の一つ「グラディエーター」で、ラッセルクロウの敵役を演じていました。
そうあの暗いローマ皇帝コモドゥスだったのですね。後から凄く納得しました。
あの陰気な皇帝とジョーカーの心の闇は、身分こそ違えど演じるに被るような気がします。
1962年にイギリス・リバプールでデビューしたビートルズが世界を一世風靡しました。
日本でもそれは大変受けてミュージックシーンの改革をもたらした・・・と言われてますが・・・。
でも妙にクリアーな音楽が全く肌に合わず未だに苦手なのです。来日は1966年でした。
でも昔もっと勘に障ったのが1969年のフランク・シナトラの「My Way」という歌のメロディーです。
小学生の頃、一緒に住んでいた叔母から歌詞の内容も聞いて、更に胸くそ悪くなり身震いしました。
決して恵まれたと思ってない人間が終焉に「人生礼賛」の歌なんか歌うもんか!。
考えたら凄いですね。小学生の時点で名曲「My Way」は僕の中で偽善の歌になっていたのです。
そして、その歌を意気揚々と歌うシナトラに拒否反応を覚えてしまったのです。
でも、シナトラ批判は間違いでした。彼はこんな素晴らしい唄を歌っていました。
実は映画の中のアーサーと自分は凄く被るのです。勿論、彼は架空都市ゴッサムシティーの犯罪者。
でもあの映画の中で描かれた世界は、アニメ世界ものではなく今の現代に続くリアルな社会でした。
さあ、みんな何処まで幸せでいれるのでしょう。何が幸せでしょう?。物は貴方を幸せにしてますか?。

映画の中のアーサーは母親を殺します。実の母親かどうかは分かりませんが・・・。
今回この記事がオカルトなのは此処からです。自分もいい歳になりました。もういいでしょう。
これから私が人を殺すことはないと思います。でも「人間」は生まれてこの方好きではありません。
今で言うひどいDV夫だった父親は、来る日も躁鬱病を理由に自営のBarである職場を放棄しました。
休みの日は共稼ぎで買ったマンションのベッドで凄まじい鼾をかいて寝てました。
僕は高校生になっていました。相変わらず母親に対する暴虐は凄まじいものがありました。
父親はほぼヒモでした。母親は自分だけが健気に働き家計を維持し、それを誇りにしていました。
まぁ彼は間違いなく病んでいました。確かに普通とは違うと幼少期から思っていました。
感情の起伏は尋常ではありませんでした。酔ってない時は戦争の本しか読まない人です。
夫婦の会話も、親子の会話も元々殆どなく、私にとってはどちらも面倒な存在でした。
高校二年のその日、昼間です。轟音で寝ている父親の首に二重に洗濯ロープを回しました。
ヘッドボードの端に結んで、後は思い切り引くだけで殺せるかも知れない状態にしました。
まるで寝るだけが趣味のように、全く起きる感じはなく、私は三十分ぐらい紐の端を握って沈思。
「これを引いたら僕は殺人者。それでいいのか?。」という自問を繰り返していたのです。

長くそうしていたので、流石に父親が首に違和感を感じて目を覚ましました。
ひとこと「オマエ、何やってるんだ?」と言いました。
私は口ごもり、見れば分かる筈なのに・・・と思いつつロープの端から手を話しました。
父親はそれ以上何も言わず、1度私を睨みロープの首輪を外し、また寝入ってしまいました。
まぁ病んでいるのは父親だけではなかったと言うことです。
私はその時、少し安堵したのです。こんなクソオヤジのために殺人者にならなくて良かったと・・・。
一生を監獄の中で過ごすのは、本を読み続けるのにはいいのかも知れません。
ただ、漂泊者でありたい自分にはそれは耐えられない苦痛に違いありません。
お蔭でそれから僕はあちこちを旅することが出来ました。
ただフランスと永井荷風と金髪美女と海が大好きだった父親は結局、日本だけです。
海外の1カ国ですら、赴くことなく57歳で大量に睡眠薬を飲み自殺しました。

救わなかった私と母を恨んだでしょうね。でも仕方ありません、自分でそうしたのです。
彼は希望通り、悲劇のヒーローで終わりました。
そこは後に喜劇のヒーローとなるアーサーとは少し違っていたと思います。
母親も何度か殺したいなと思ったことがありました。
でも結局僕は7年間、認知症の母親の介護をして・・・母親は94歳でほぼ大往生。
子供は親を選べないといいますが、そうではないようです。
生まれる前から、お腹に入る母親を選んでいるのは自分らしいです。
また、因果律の話しはいつか気分が乗った時に・・・。
まだ沖縄らしさが残る那覇に魅力を感じていたのはもう40年前ぐらいでしょうか・・・。
那覇に行く楽しみは、沖縄国立博物館に行くことと、シネマQで映画を観ることです。
映画を観たいので「おもろまち」に宿を取ります。さて、何の仕事の次いでだったか、観たかった映画に行けました。
映画のタイトルは「ジョーカー」です。僕は特にバットマンのファンではありません。
マーベルの映画は嫌いではありませんが、観るのは殆どレンタルです。
でもこの映画には惹かれていました。惹かれた映画は出来るだけ鑑賞しに行きます。
いつも死を覚悟して求道する悪魔こそがジョーカー

ジョーカーと言えば僕の中では「ダークナイト」のヒースレジャーでした。
彼は呆気なく亡くなってしまったのが残念です。まだバットマンでは続編で活躍できたかも知れませんね。
でも「ジョーカー」をイメージづけたのはジャック・ニコルソンでしょうね。若い方は多分知らないでしょう。
ロードショーされてから大分時間が経っていたので、映画館はガラガラでした。10人ぐらいだったかな?。
でも僕は空いている施設が大好きなのですよ。人の少ないパブやバーが大好物です。
独り占めですからね。シアターの売店でコーラとホットドッグを買って、ど真ん中当たりの席に深く腰掛けます。
そして映画が始まり・・・そして上映は・・・終わりました。感情の起伏を殆ど持たないまま席を立ちました。
「つまらない・・・」などと批判的に感じたのではないのです。
共振性が深すぎたために一時のアパシー状態になっていたのです・・・。
悲しげな目の美しさが印象的です

ホアキン・フェニックス演じる「ジョーカー」は凄い映画でした。僕はこの役者を知らないと思っていたのです。
でも、履歴を調べたら、好きな映画の一つ「グラディエーター」で、ラッセルクロウの敵役を演じていました。
そうあの暗いローマ皇帝コモドゥスだったのですね。後から凄く納得しました。
あの陰気な皇帝とジョーカーの心の闇は、身分こそ違えど演じるに被るような気がします。
1962年にイギリス・リバプールでデビューしたビートルズが世界を一世風靡しました。
日本でもそれは大変受けてミュージックシーンの改革をもたらした・・・と言われてますが・・・。
でも妙にクリアーな音楽が全く肌に合わず未だに苦手なのです。来日は1966年でした。
でも昔もっと勘に障ったのが1969年のフランク・シナトラの「My Way」という歌のメロディーです。
小学生の頃、一緒に住んでいた叔母から歌詞の内容も聞いて、更に胸くそ悪くなり身震いしました。
決して恵まれたと思ってない人間が終焉に「人生礼賛」の歌なんか歌うもんか!。
僕に響くのはこちらの歌詞です、素晴らしい!
考えたら凄いですね。小学生の時点で名曲「My Way」は僕の中で偽善の歌になっていたのです。
そして、その歌を意気揚々と歌うシナトラに拒否反応を覚えてしまったのです。
でも、シナトラ批判は間違いでした。彼はこんな素晴らしい唄を歌っていました。
実は映画の中のアーサーと自分は凄く被るのです。勿論、彼は架空都市ゴッサムシティーの犯罪者。
でもあの映画の中で描かれた世界は、アニメ世界ものではなく今の現代に続くリアルな社会でした。
さあ、みんな何処まで幸せでいれるのでしょう。何が幸せでしょう?。物は貴方を幸せにしてますか?。
僕は父も母も殺したかった、でもしなかった

映画の中のアーサーは母親を殺します。実の母親かどうかは分かりませんが・・・。
今回この記事がオカルトなのは此処からです。自分もいい歳になりました。もういいでしょう。
これから私が人を殺すことはないと思います。でも「人間」は生まれてこの方好きではありません。
今で言うひどいDV夫だった父親は、来る日も躁鬱病を理由に自営のBarである職場を放棄しました。
休みの日は共稼ぎで買ったマンションのベッドで凄まじい鼾をかいて寝てました。
僕は高校生になっていました。相変わらず母親に対する暴虐は凄まじいものがありました。
父親はほぼヒモでした。母親は自分だけが健気に働き家計を維持し、それを誇りにしていました。
まぁ彼は間違いなく病んでいました。確かに普通とは違うと幼少期から思っていました。
感情の起伏は尋常ではありませんでした。酔ってない時は戦争の本しか読まない人です。
夫婦の会話も、親子の会話も元々殆どなく、私にとってはどちらも面倒な存在でした。
高校二年のその日、昼間です。轟音で寝ている父親の首に二重に洗濯ロープを回しました。
ヘッドボードの端に結んで、後は思い切り引くだけで殺せるかも知れない状態にしました。
まるで寝るだけが趣味のように、全く起きる感じはなく、私は三十分ぐらい紐の端を握って沈思。
「これを引いたら僕は殺人者。それでいいのか?。」という自問を繰り返していたのです。
ドキドキしながら二回ぐらい首に巻いた

長くそうしていたので、流石に父親が首に違和感を感じて目を覚ましました。
ひとこと「オマエ、何やってるんだ?」と言いました。
私は口ごもり、見れば分かる筈なのに・・・と思いつつロープの端から手を話しました。
父親はそれ以上何も言わず、1度私を睨みロープの首輪を外し、また寝入ってしまいました。
まぁ病んでいるのは父親だけではなかったと言うことです。
私はその時、少し安堵したのです。こんなクソオヤジのために殺人者にならなくて良かったと・・・。
一生を監獄の中で過ごすのは、本を読み続けるのにはいいのかも知れません。
ただ、漂泊者でありたい自分にはそれは耐えられない苦痛に違いありません。
お蔭でそれから僕はあちこちを旅することが出来ました。
ただフランスと永井荷風と金髪美女と海が大好きだった父親は結局、日本だけです。
海外の1カ国ですら、赴くことなく57歳で大量に睡眠薬を飲み自殺しました。
僕は人を殺してヒーローになった、さあ踊ろう

救わなかった私と母を恨んだでしょうね。でも仕方ありません、自分でそうしたのです。
彼は希望通り、悲劇のヒーローで終わりました。
そこは後に喜劇のヒーローとなるアーサーとは少し違っていたと思います。
母親も何度か殺したいなと思ったことがありました。
でも結局僕は7年間、認知症の母親の介護をして・・・母親は94歳でほぼ大往生。
子供は親を選べないといいますが、そうではないようです。
生まれる前から、お腹に入る母親を選んでいるのは自分らしいです。
また、因果律の話しはいつか気分が乗った時に・・・。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。