
最近スピリチャルな世界が多く語られる時代になりました。
地上波では出来なかった発言が、ネット上で出来るようになりました。
個人が自分の生業以外の余談を配信できるようになって、摩訶不思議な出来事を共有出来るようになりました。横の繋がりが出来る時代になり、文明社会に押し殺されていた色々な不思議たちは、この迷える時代に蘇ってきました。「ただ自分だけに起こっていたと思われた不思議なこと」は、実は共感認識となり自分だけの特別なものではなかったと分かり始めています。
貧しいことは決して慄れるべきことではないのです。空腹は感覚を研ぎ澄ませます。無駄が排除されていたからこそ、見えていたものがあります。それは食べることが大変な時代は当たり前でした。昔は長生きは出来なかったかも知れませんが、ただ感性の深さは今以上だったに違いありません。
これから益々その時に戻っていきます。この数十年以内に起こる食料危機によって人は今以上にスピリチャルの世界に入って行きます。感覚世界は怪しい扱いとなっていますが、徐々に普通の感性になってゆく気もします。植物がずっと水を得られないと生存の危機感から、花を咲かせようとするのと同じです。
10年ほど前?からアセンションと言う言葉がもてはやされています。「次元上昇」とか・・・。不思議なことは数々体験して来ましたが、どうでしょう?。私は人間は真実と推測の狭間にいるからこそ生きてゆけるのかなと思っています。此処で言う真実は過去です。推測が科学なのかも知れません。スピリチャルの世界は存在するものではなく、やはり創っている世界なのかなと感じます。
私は宇宙人を信じてはいます。だが生命体としての寿命はアヌンナキのように何万年も生きるというの余り納得がいきません。生命は滅するから生命の価値があるのであって、長寿命に余りメリットがあるとはやはり思えない。むしろDNAを以て変異を重ねていった方が環境への変化を乗り越える力を蓄えていけるでしょう。
近頃は長生きの弊害とされる認知症を克服出来る製薬が作られようとしていますが、それに何の価値があるのでしょう?。老いてゆく体に聡明な自意識は本当に必要なのでしょうか?。今のままでいいような気がします。むしろ長生きして浪費するより精神の時代に立ち返るべきなのかと思います。そこに叡智を絞れたら、見いだせたら金と物に縛られる時代は終わり、労りの世界が来るような気がします。
地上波では出来なかった発言が、ネット上で出来るようになりました。
個人が自分の生業以外の余談を配信できるようになって、摩訶不思議な出来事を共有出来るようになりました。横の繋がりが出来る時代になり、文明社会に押し殺されていた色々な不思議たちは、この迷える時代に蘇ってきました。「ただ自分だけに起こっていたと思われた不思議なこと」は、実は共感認識となり自分だけの特別なものではなかったと分かり始めています。
貧しいことは決して慄れるべきことではないのです。空腹は感覚を研ぎ澄ませます。無駄が排除されていたからこそ、見えていたものがあります。それは食べることが大変な時代は当たり前でした。昔は長生きは出来なかったかも知れませんが、ただ感性の深さは今以上だったに違いありません。
これから益々その時に戻っていきます。この数十年以内に起こる食料危機によって人は今以上にスピリチャルの世界に入って行きます。感覚世界は怪しい扱いとなっていますが、徐々に普通の感性になってゆく気もします。植物がずっと水を得られないと生存の危機感から、花を咲かせようとするのと同じです。
10年ほど前?からアセンションと言う言葉がもてはやされています。「次元上昇」とか・・・。不思議なことは数々体験して来ましたが、どうでしょう?。私は人間は真実と推測の狭間にいるからこそ生きてゆけるのかなと思っています。此処で言う真実は過去です。推測が科学なのかも知れません。スピリチャルの世界は存在するものではなく、やはり創っている世界なのかなと感じます。
私は宇宙人を信じてはいます。だが生命体としての寿命はアヌンナキのように何万年も生きるというの余り納得がいきません。生命は滅するから生命の価値があるのであって、長寿命に余りメリットがあるとはやはり思えない。むしろDNAを以て変異を重ねていった方が環境への変化を乗り越える力を蓄えていけるでしょう。
近頃は長生きの弊害とされる認知症を克服出来る製薬が作られようとしていますが、それに何の価値があるのでしょう?。老いてゆく体に聡明な自意識は本当に必要なのでしょうか?。今のままでいいような気がします。むしろ長生きして浪費するより精神の時代に立ち返るべきなのかと思います。そこに叡智を絞れたら、見いだせたら金と物に縛られる時代は終わり、労りの世界が来るような気がします。
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